天笠書房

番外・魔導書工房の見習い日誌

来年の約束

 十二月の製本工房、その需要をまるでわかっていなかった。年末の挨拶回りで配るカレンダーというものが社会にはあるらしい。年賀状とは自宅のプリンターで印刷するだけのものではないらしい。千尋は目の回るような日々を振り返りながら、挽きたてのコーヒー豆をサイフォンのロートに入れた。すぐフラスコに差し込んで、火元に戻す。

 サイフォンを使ったコーヒーの淹れ方は、星雨堂に来て最初の朝に劉から教わったことだった。今ではすっかり慣れたもので、考え事をしながらでも手元は細やかに作業を続けられる。この工房の人々は朝や休憩、食後にコーヒーを飲む――カフェインの摂取量を心配することもある――が、千尋にもだんだんと仕事終わりの一杯という習慣が体に刻まれてきたように思う。

 くらくらと立ち上るコーヒーの香りを吸い込み、竹ベラを使って粉とお湯とを撹拌する。決まった時間を計り、もう一度撹拌。ここばかりはコーヒーが濁らないよういつも慎重になる。そうしてフラスコに落ちた三人分のコーヒーを各々のカップに注いだ頃、劉とゆきは作業着から着替えてリビングに降りてきた。

 三人集えば話題は自然と、ついさっき片付いた山積みの仕事たちになる。劉はコーヒーにシナモンとシュガーを落としてスプーンで混ぜ「疲れたねえ」としみじみ零した。

「でもまあ、千尋君は勉強になったんじゃないかな。うちは小規模な受注しかやってないけど、その分組み込む魔法は複雑にできる。色んな魔法があったでしょ」

「そう……ですね。何となく、流行とか人気の傾向も掴めそうな気がします」

 基本としては、図柄が動くもの。それからハガキの中に小物を封じるもの。これらが人気で定番の魔法だった。二つを組み合わせれば『ハガキに描かれた誰かの手により棚から選び取られたボールペンが実際にコロリと手元に落ちてくる』というような魔法が出来る。見応えがあって景気も良い。そういう魔法が好まれていたように思う。

 今年注文があったものでは、ポップコーン専門店の年賀状がいちばん千尋の印象に残った。

 図柄に干支の姿は無く、ポップコーンマシンの横で色とりどりのポップコーンを売っている燕尾服の男が描かれている。『彼の肩を叩くとポップコーンをサービスしてくれるでしょう』の文言通りに絵の肩部分を指で何度か叩くと、絵の中の男は微笑んで会釈するのだ。これはペンの頭や猫の足でも特に変わりない、要するに一定以上の力を加えることを条件に魔法は発動する。

 そして、マシーンの中で淡い赤や緑、白のポップコーンが弾ける。つられてハガキは空気を詰めたペーパーバッグのようにぷっくり膨らんで、ぱかんと真ん中から割ける頃には赤、緑、白の三食ポップコーンで中は満たされているというものだった。

 まず、ポップコーンは出来たてが美味いという話があって――これにより、あらかじめ作ったポップコーンを閉じ込める案は消えた――、では熱の魔法を使う必要があるのではという話になり、火器に準じるハガキは郵便局では預かってもらえないという問題へ転がり、では直接ポスティングされるような魔法を作るかという案が出され――と、これらは乗り越えてきた問題の中でも目立つ部分のみを取り上げたが、とにかくそうした大混乱の末にできた力作だ。

 美味しいポップコーンになるように試作も重ねた。絵の中では三色のポップコーンは同じマシンで作られているが、実際は加熱して弾けさせたあとでチョコレートやいちごのパウダーで味をつける。加熱前のとうもろこしを三つの部屋に分けて、味付けの方法に合わせて魔法の組み方も少しずつ変える。塩をふるもの、チョコがけ、パウダーがけ。それぞれが商品たり得るクオリティでハガキから飛び出すようにする調整には時間が掛かった。当然、製本工房にポップコーン作りのノウハウなどはないのだから。

 試作、試食、改善の繰り返しだった。ああいう試行錯誤の続く先が見えない状態は、締切を前に単純作業が山のように摘まれている状態とは違った辛さがあるものだとつくづく学んだ。

「流行ですか」

 ふと、ゆきが話を受ける。

「今年は、魔法は華やかなものが好まれる傾向にありましたね。デザインでいえば……シンプルモダン、でしょうか? 全面に図柄を施すなら一つ一つは細かに、そうでなければ黄金比を中心に配置された最小限のモチーフとメッセージで、現代的、色は三色以内」

 そうでしたよね、とゆきは劉へ水を向ける。魔法の構築といった技術的な部分はゆき、デザインなどの純粋に美術的な部分は劉の担当だった。

「うん、ゆきの言う通りだと思う。でも沢山書き下ろした気もするし……シンプルだからこそ、配置する絵や柄にオリジナリティを追求されたってところかもしれない」

 魔法的には凝った依頼でなくとも、アイデアを沢山アウトプットするのはそれだけで消耗する。劉は星雨堂の中でも特にそういう気の強い役回りにあった。

 疲れ切った脳と身体に糖分を回したいのだろう、甘くしたコーヒーをすーっと流し込む劉にも流石に疲れが見える。しかし、今日できっと仕事納め。しばらくはのんびりと年末年始の空気に浸れそうだと、千尋はゆっくりとソファの背もたれに体重を預けた。掌で包んだマグカップのぬくもりが疲弊した手の平の強張りをほぐしていく。

 一方で、劉は伸びをして関節を鳴らしながら背もたれに預けていた上体を起こした。目元に残った疲労を拭うように親指で擦る。

「まあでも、まだ燃え尽きてない。幸いまだ午前だし、今日の午後から図案を修正して明日には夜にはゆきに回すよ。明日の――午後には印刷に回れそうかな?」

「ええ、問題ありません。依頼はもう片付きましたから、集中してやれば全工程も三日ほどで。千尋君、私たちが年賀状の準備をしている間に宛先を印刷する用意をお願いします」

 ソファにもたれきったまま、千尋の思考が一瞬止まる。仕事は、終わったのではなかったか? 千尋の学校の課題も後回しにするほど多忙な日々だったが――……。

「――えっと、残りの仕事って」

 どういうことですかと動転しそうなのを何とか抑え、穏やかに、千尋は尋ねようとする。劉は眉を下げてからかうように笑った。

「千尋君、大事なことを忘れちゃ駄目だよ。うちも年賀状を出すって言ってなかったっけ。まあ、今は紙に拘らなくてもいい時代かもしれないけど……星雨堂は製本工房。こんな印刷ができますよ、こんなデザインが出来るスタッフがいますよって、見本品を配るまたとないチャンスだ。同業者に、三番街の他のお店、懇意の取引先……ああ、インクとか紙の調達してくれるところね。あとは、お客様かな。お得意様と今年ご来店のあった方々」

「それって数、すごいんじゃ……」

「そうなるね。あとちょっと、頑張ろう」

 端正な顔がにこっと微笑んで見せたが、千尋の気分は沈む一方だった。終わったと思った仕事が、まだ沢山残っているなんて酷い悪夢だ。初夢に影響したらどうしてくれる。魔法の世界の初夢は本当に正夢になりそうだというのに――……。

「ああ、もうそんなに落ち込まないの。千尋君のお友達にも送っていいよ。メッセージ手書きする余白も作ってあげるから」

「いや、俺別にそういう友達いないんで」

「いるでしょ。同じ年のさ、何て言ったっけ。魔導書塔の子と日輪屋の息子さん……」

「そういうのじゃ、ないんで。住所とかも聞いてないし」

「魔導書塔と日輪屋、そんなのどっちも検索したら住所と営業時間くらいすぐ出てくるよ。というか、お店としても出すから住所はリストに入ってる」

 劉はなんとなく千尋が渋る理由を察しているようだったが、素知らぬふりをして逃げ道をふさいでくる。これ以上は粘りようがなく、「とにかく」と話を遮る。

「俺の分はいいです。ちょっと、買い出しあるんで俺出ますね」

 最後のコーヒーを呷って空にしたカップを片手に立ち上がった。なんとなく、かしこまった挨拶は気恥ずかしい。文面に『今年もよろしく!』とか『今度海に行こうな!』みたいに明るい文言を書き連ねる人間性も持ち合わせていないのだから、手書きの云々と言われても億劫だった。自分には縁の無いもの、と心の中で唱えながらカップを洗う。

 上着を羽織って出ていこうとすると、玄関先までゆきがやって来た。手には白いマフラーを持っている。

「外、寒いですよ」

 屈んで、と言われて大人しく従うとマフラーを首に巻かれた。あたたかいところに置かれていたのか、魔法をはらんでいるのか、首にはすぐにぬくもりが伝わる。

 しかし、ゆきは何の理由もなく千尋を甘やかしたりはしない。それは千尋もよくわかっていて、その後に続く言葉なり真意なりを汲み取らないと落ち着かなかった。

「師匠、あの……」

「年賀状。もう一度考えてみてくださいね、何枚だって用意できますから」

「でも、送るんですよね。星雨堂から……」

「お店には、そうですね。基本的に、日輪屋さんでしたら社長さん、魔導書塔でしたら館長さんにあてて、星雨堂店主の私から。店名を背負うときには各所を代表する者の名前でやりとりします。でも水天楼閣さんには、星雨堂店主の私からと劉さん個人から芙蓉様にご挨拶をお送りしますよ。私は楓山さんと蘭さんにもお送りします。それから、水天楼閣内のテナントのいくつかのお店にも」

 水天楼閣とは、この星雨堂が所在する大魔法商店街たる三番街の最奥にして頂点にある大陸風の雰囲気を持つ百貨店だった。魔法で商う店をテナントとしていくつも抱え、飲食店やスパ、エステに宿まで揃えている巨大な《薬屋》である。店主は何年生きているかもわからない芙蓉という女で、星雨堂の面々は秘書の楓山透、芙蓉の一番弟子の蘭とも親交があった。

 なるほど、一つの店にも複数枚出すのであれば年賀状の枚数は膨大だろう。そう思っていると、ゆきは千尋のマフラーの結び目をやわらかく叩いて、ほんのわずか笑みを見せた。

「何枚でも問題ありません。うちから出す年賀状、お年玉つきです。沢山あった方が嬉しいかもしれないですよ」

「そうですかね……」

「はい、きっと。……それと、外に出るならお花もお願いしたいです。店舗に飾るドライフラワーと、生花もお好みで。どちらも預けている財布から出していただいて構いません。予算もお任せします」

「あ、はい。承知しました。……ドライフラワー、ハンギングですか?」

「陶器の大きな花器がありましたよね。それに飾って、カウンター横に置こうかと思っています」

「ああ、あれですね。もしかしたら後日引き取りになるかもなんですけど――」

 それだけ大きなドライフラワーを調達するとなると、馴染みの花屋で即日にというのは難しいかもしれない。ゆきは確かに、と呟いた。

「仕事初めに間に合えば嬉しいですね。では、お気を付けて、いってらっしゃい」

「いってきます」

「年賀状、考えておいてください。しつこくてすみません」

 ぱたん、と玄関が閉じる。





 別に頼まれたわけではない。千尋の友人――と言って良いのか千尋にはまだわからない――の二人である栞にも、奏にも、お互い年賀状を出し合おうなんて約束は取り付けていない。一方的に送るハガキ一枚、たったそれだけのことに約束なんて必要ないのだろうけれど、自分らしくないと思うことをするためには今ひとつ理由が足りないのだった。

 年の暮れ、昼下がりの空気は心地良く冷えている。昨晩にでも降ったか、ところどころに残雪で足を滑らせないように慎重に石段を降りた。このあたりは地形的にはそれほど積雪がないはずだが、榊ヶ原の世界樹に惹きつけられた精霊たちの中には冬風や雨雲を運ぶ者がいる。そのせいもあって三番街では雪景色もそれほど珍しいものではない。

 雪の残る道を歩く買い出しの帰り、千尋は一艘の天舟が通りに降りているのを見つけた。木製のボートは花籠と見紛うほどにさまざまな花が詰められ、その前にはレジを兼ねた作業台といくつかのブリキのバケツに入れられた花たちが置かれている。千尋が花を買うのは大抵この移動花屋だった。

「望月さん」

 店主の青年に声を掛けると、望月は作業の手を止めて振り返り喜色満面で千尋を迎える。

「千尋君。もう年内には会えないかなあと思ってたから、来てくれて嬉しいな。いらっしゃいませ、ゆっくり見ていってね。あ、マフラー似合ってる。かわいいよ」

「か……、いや、えっと、ありがとうございます。今日は午前で仕事に一区切りついたので、買い出しと……仕事初めに店に飾るドライフラワーが欲しくて。あと、年末……年始まで保たせられるかな、そういう切り花も探してるんです」

「そっかそっか。ドライフラワーなら、良ければ直接届けに行くよ。年始にお店に飾るのって、たぶん大きい花瓶に活けるあれじゃない?」

 望月は以前から店舗に飾るドライフラワーを担当している。星雨堂の内装や飾る花の量はよくよくわかっているようだった。

「そうです。もしかして去年もこんな感じで注文しましたか?」

「うん。写真も残してるよ。今年もテーマとかあれば……あの、まあ、劉さんは『好きにして』っていう割に後から文句言うんだけどね」

 はは、と力なく笑う望月に千尋は少し申し訳なくなった。一応、同じ工房の従業員である。劉は少し望月に冷たいきらいがあるのだが、望月は果敢に仲良くなろうと奮闘しているらしい。

「ああ、切り花だったね。ごめんごめん。長持ちするのはカーネーションとか……お正月ムードに合わせるなら菊もおすすめだよ。ピンポンマムはシルエットが可愛いのに品もあって、花弁が密集してるから華やかな感じもする、存在感がある花」

 望月は菊をそろえた一角に千尋を手招きで呼んだ。ピンポンマムは名前から連想する通り、毬のように丸く小さな花弁が密集している。望月が薦めるのは白や緑だった。

「あとは……あの子もいたっけ。ほらこれ、ジェードグリーン。こっちはデコラ咲きって言って少し花の形も違うんだけど、僕としてはもう少し肩の力が抜けた印象になるかな。ほら、この花びらが外側に開いてる感じなんかそう」

 緑色の菊、細長い花びらは中心に向かうにつれて茶巾でしぼったようにぎゅっと集まっている。外側はそれをそっと指で解かれたように放射状に広がっていてどこか茶筅を思わせる。
 
 菊には仏花の印象があったが、こうして見ると部屋に飾るのも悪くないと思えてくる。折角なら季節や行事の雰囲気に沿うような花を飾りたいと思うようになってきたのは最近だが、派手過ぎず一輪で挿しても侘しくないような白や緑のマムも良いのかもしれない。

 そのとき、ふと風に甘い香りが乗って千尋の鼻先をかすめる。香りにつられて視線をうつせば、作り物めいて透きとおり、鮮やかな黄色の花びらを持つ八重咲の梅に似た花があった。花びらはやや厚そうで、手で触れたらポロリと落ちてしまいそうに見える。

「ああ、それは蝋梅だね。香りにつられたかな、僕のところにも飛んできた」
 
 望月は自分の鼻を指で示して微笑んだ。

「蝋燭の蝋に梅でロウバイ。でも正確には梅の仲間ではなくて、あとは香りが特徴。甘い香りがしたでしょう? この花は英語でウィンタースイート、冬の甘い香りって名前なんだよ」

「へえ……」

 物珍しさからか、梅に似ているからか、千尋は蝋梅をしばらく見つめていた。ゆきから初めて貰った魔法は紙細工の白梅が咲く枝だ。つい、それを思い出してしまう。

「……蝋梅も、枝に切れ込みを入れて水の吸い上げを良くしてあげると長持ちするよ」

 これにする?と望月が千尋の顔を覗き込む。何だって大人は察しが良いのだろう、自分がわかりやすいだけなんだろうか。マフラーに顔の半分を埋めて小さく頷いた。それだけで望月は嬉しそうに笑う。

「一番大きい枝選ぶね」

「普通のでいいです。普通ので……」

「普通なんてないよ、みんな特別」

 なんてことない調子でそう返事して、蝋梅のバケツとにらめっこを始める。そうして、結局大ぶりな枝の中でも蕾の多い一本を選んで包んでくれた。

「花が落ちやすいから気を付けて。でも、落ちた花も水に浮かべて飾ると綺麗だよ」

 いつもより慎重に渡された花を受け取って、千尋は「ありがとうございます」と頭を下げる。支払いのとき望月が手持ち金庫からお釣りを用意している間、千尋はブリキのケースに入った花屋の名刺を見ていた。

 星雨堂の名刺なら、店名と住所、営業時間が刷られている。望月の花屋は名刺に住所が書かれていない。代わりに、彼がよく舟を下ろす場所がいくつかと『もし出会えたらお立ち寄りください』の一言がある。

「お待たせしました、五百円のお返し……ああ、名刺? 良かったら持って行ってね」

「あ、どうも……。いや、住所書いてないなって」

「移動販売だからねー。許可申請の都合もあるから完全に神出鬼没ではないんだけど……」

 腕を組んで渋い顔をする望月だったが、唸るように「わかりにくいよね」と零した。花でいっぱいの舟で営業する花屋はどこにいたって目立つとは思うが、入り組んだ三番街では見える場所までたどり着くのが難しいのだろう。

「まあ、困ることもあるけど僕はこれが気に入ってるんだ。デメリットは受け入れてるつもり」

 と、ひとり納得して深く頷いていた。別に、千尋は「名刺に所在が記載されていない」くらいのことしか言っていないのだけど。

「そういえば年賀状……」

 住所といえば。ふと気になって名前を出してみる。住所がなくて不便と言われて思いつくのは、まず郵便物だった。個人宛は流石に居所に届くだろうけれど、店としてのやりとりなんかもプライベートな宛先で行われているのだろうか。

 それは星雨堂としても同じく心配で、店に飾る花を売ってくれる相手なのだから『懇意にしている取引先』なんかに含まれるだろうけれど、一体どこに宛てて送っているのだろう。そう思ったのだが――……。

「年賀状!」

 と何故か意外そうに、待ちわびていたように、望月の声が期待に満ちる。彼にとっては楽しい話題なのかもしれない。とっておきの鉄板ネタが山ほどあって話したくて堪らない、とか。あるなら聞いておきたい気がする。

「あ、はい。望月さんって、お店宛ての年賀状とかどうやって受け取ってるのかなって」

「ああ、気になるよね。僕はいつも色んなところにいるし……。一応、舟を置いたり花をストックしたりして拠点にしている事務所があるから、同業者間はそこの住所を使ってるかな。でも魔法郵便だと、僕が居る場所どこにでも届けられたりするから、わざわざそうやって送ってくれる人もいる」

「そうだったんですね。えっと、星雨堂のは……」

 戻って年賀状の宛先一覧でも確認すればわかるだろうが、これも話の種だ。千尋はそっと尋ねるが、望月の爛々としていた笑みから徐々に生気が消えて哀愁が漂い始める。

「あっ、あのね、去年はその……もらえてなくて……劉さんにお願いしたんだけど、『やだ』って言われちゃって……」

「…………はい?」

 千尋は眉を顰める。

「待ってくださいね、情報が多い。去年、劉さんに頼んだんですか?」

「ああ、違うんだ。今年の分は特に何も言ってないし聞かれなくて、僕が移動販売だから気を遣ってくれたのかな、と思ってね。それもあって年明けに会ったとき『事務所があるので、来年はここに年賀状くださいね』ってお願いしたんだ」

「お願いしたんですか? な、なんでまた……」

 年賀状をください、というのも社交辞令にしては奇妙なお願いだと思う。望月は「だって」とやや興奮気味に答えた。

「星雨堂って書物魔法の工房でしょう。紙にインクで描いたすべてで奇跡を生み出す魔法使い。そんな人たちが一年の最初に配る渾身の一枚に、興味を持つなって方が無理だよ」

 まあ、期待はあながち的外れでもない。劉も工房の仕事ぶりを公告する機会なのだと言っていたのだから。

「でも断られたんですね……」

「……そう。なんでだろうね」

「なんでですかね。あの人、たまに意地悪いですから。えっと……」

 千尋が言葉に迷っていると、望月はどう受け取ったのか慌てて「いいのいいの」と取りなした。

「希少なら、まあ無理にとは言わないことにしたんだ。プリンターでバーッと作るのとは違うんだろうし、普段はお仕事でそういうものを作っているわけだから軽率にねだり続けるのも悪いかなって」

 千尋の顔にぐっと力が入る。多分、劉の「やだ」にそこまで意味はない。あと何度か「なんでですか」「だめなんですか」と聞けば容易く折れてくれる。経験上はそうだった。

 望月が星雨堂の仕事を理解し、尊重してくれるのはありがたいが劉やゆきの口ぶりからして一枚や二枚増やすことに大した苦労はない。これは似たような作業に追われていた千尋にもわかる。

 と、いう事情までは知らないからこそ遠慮をする望月に千尋は再び申し訳なくなった。眉間がずきずきと痛む。

「え、千尋君? 急に俯いたけど大丈夫? ずっと寒いところに立ってたから具合悪くなったのかな」

 耳冷えてるよ、と自分の手で温めてくる望月は、やや思考の鋭さを欠くところもあるが千尋が慕う大人のひとりだった。とにかく悪意が薄く、やわらかな優しさを惜しみなく人に向ける。身内の何気ない一言を気に掛けているのが気の毒で仕方ない。

「いえ、俺は大丈夫です。というか劉さんがすみません……」

「謝ることないよ。ちょっと残念だけど、別に僕自身は星雨堂のお客さんでもないしね」

「でもお世話になってるのに……俺なんか特に――あ、」

「うん?」

 千尋は気遣わしげにこちらを見る望月を前に逡巡し、それから思い切って声に出した。

「俺が、望月さんに年賀状出したいです。どういうものになるかはまだわからないんですけど、星雨堂から出すものを俺も個人的に誰かに送っていいそうなので」

「本当に? いいの?」

「はい。あとで届け先教えてください」

「じゃあこれに書くね、待って。ペンを……」

 望月は住所のない名刺を一枚とって、そこに住所を書き始める。寒さで手が固まって動かないのがもどかしそうで、もらった名刺に書かれた文字も不器用に角ばっている気がした。

「よし、これでよろしくお願いします」

「はい、承りました」

 わざと恭しく受け応えて、星雨堂に戻ろうとする。それを、望月は何か思い出したらしく慌てて呼び止めた。

「待って、千尋君!」

「え、はい?」

 千尋の元へ駆け寄って来て、あのね、と両目を見据える。

「僕は魔法が見たくて君にお願いしたようだけど……いや、これも本当だけど、一年の始まりにさ、友達から『今年もよろしく』って言われるのは嬉しいから。はがきの表面に書いてある君の名前だけで大喜びだから。だから、なんの魔法もかかってない年賀状でも、僕に送ってね」

 その勢いに圧されて千尋は何度も頷いた。言われたことの半分も理解できていなかったけれど、万が一いま劉たちが作っている星雨堂の年賀状が千尋の手に渡らなくても、望月は千尋からの一枚を待っているということだ。ならば、もしもの時に備えて郵便局で白紙の年賀はがきでも買って行こうか。今からでも年賀はがきって買えるんだろうか。

「うん、ちゃんと伝えたからね。じゃあ帰りも気を付けて」

 毎度どうもーと間延びした声で告げながら手を振る望月に手を振り返して、千尋は星雨堂への道を辿った。考えるのは、戻ってからのこと。望月に出すのなら、奏や栞にも年賀状を書いてもいいかもしれない。別に一枚も二枚も三枚も変わらないだろう。その前に、望月が店の花を活けに来る日の段取りを決めて、蝋梅の枝に切れ目を入れて花瓶に飾るのだった。首を左右に振る。優先順位がめちゃくちゃだ。

 石段をのぼりながら一つ一つ、自分のやることを頭の中に並べていく。その一つ一つは、特に知人に書く年賀状については、迷惑じゃないだろうかとか何を書けばいいのだろうとか、そういう不安があることに変わりなかった。でも、不思議と億劫ではない。紙に包まれた蝋梅の枝から甘い香りを吸い込む。

 星雨堂に戻った千尋が、劉から渡された年賀状の送り先リストに望月の名前を見つけるのは少し後の話で、劉が何の気もなしに「ああ、なんか今年の一月くらいに来年は年賀状欲しいですって住所渡されたんだよね。まあ控えておいてあげたけど、やっぱりあいつ変わってる」と言ったことで呆れきった千尋が思わず「あんたなあ……」と声を上げたのは更にもう少し後の話になる。